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安倍政権は、去る3月12日、4月28日に「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を政府主催で開催することを閣議決定し、県民に大きな怒りが広がっています。

県内2紙は3月9日にそれぞれ政府を厳しく批判する社説を掲載しています。

4月28日は、沖縄が日本から切り捨てられ、米軍による戦時占領から「合法的」な占領に移行した日であり、自国の領土を米国に献上した日本の「屈辱の日」なのですから、県民が怒るのは当然です。

【政府主催の式典は問題】

国民一人ひとりが4月28日をどのように捉えるかは思想・信条の自由に属し、記念集会の開催も集会・表現の自由の範囲です。しかし、政府主催の式典となれば、61年前に切り捨てた沖縄を再び切り捨てることに他なりません。

【4月28日とは】

1952年4月28日、前年9月に締結されたサンフランシスコ平和条約が発効しました。

サンフランシスコ条約第3条は、北緯29度以南の南西諸島(沖縄、奄美)と小笠原諸島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治に置くと定め、これにより沖縄は日本から切り離され、1972年5月15日の施政権返還まで、27年間に及ぶ米軍政の下に組み込まれたのです。

【米軍政下の沖縄】

米軍政の下で、沖縄県民は筆舌に尽くせない苦難の道を歩まされました。

1950年に勃発した朝鮮戦争を契機に、米軍は沖縄を不沈空母とするため、宜野湾伊佐浜、伊江島、小録具志、那覇銘苅など銃剣とブルドーザーで住民を追い立て、家を焼き、墓を押し潰して基地の拡張を強行しました。

1957年から58年にかけて、本土から沖縄に米軍を移駐させ、国内兵力に対する県内兵力の比率は57年の19・4%から58年36・2%と急増します。

基地強化がすすむ中、宮森小へのジェット機墜落(59年18名死亡)、嘉手納町への輸送機墜落(62年7人死亡)、読谷村でのトレーラー落下(65年11歳の少女死亡)など、県民の命が奪われました。

県民に対する米軍の扱いは虫けら同様で、61年伊江島、63年北谷、66年コザ市で米兵によって県民が射殺され、他にも射殺・刺殺、暴行死が頻発しています。

由美子ちゃん事件(55年6歳の少女が米兵に強姦され殺害)、国場君事件(63年青信号で横断歩道を歩行中の中学生が米軍車両に轢き殺される)、金城トヨさん事件(70年酒酔い運転の米兵に歩道で轢き殺される)など、多くの事件・事故が起きていますが、犯人の米兵は無罪とされています。

こうした事柄だけでなく、米軍占領下で社会資本の整備が遅れただけでなく、年金制度の適用が遅れて低年金、無年金の高齢者を生み出すなど、今日までその傷跡は残されています。 

【ポツダム宣言違反の占領】

日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、戦争は終結しました。

ポツダム宣言は、8項で「日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並びに吾等の決定する諸小島に局限される」、12

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項で「日本国民の自由に表明する意思に従い、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立された時は、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収する」と宣言しています。

ポツダム宣言が忠実に履行されておれば、沖縄が切り捨てられることはなく、米軍も国内から撤退しなければなりませんでしたが、サ条約と、それと同時に締結された安保条約です。

【基地のない平和な沖縄を】

野蛮な米軍支配に反対する県民のたたかいは「核も基地もない平和で豊かな沖縄」をめざす復帰運動として大きく発展しました。それは戦争の悲惨さを体験した県民の“憲法9条の下で平和に暮らした”との願いを実現するためのたたかいでした。

県民は復帰行進や海上大会など多様なたたかいを展開しました。4・28はその節目のたたかいの日であり、後には県民と国民が連帯してたたかう全国統一行動に発展しました。

県民と国民のたたかいが高揚するなか、1968年に行われた初の首席公選選挙で、即時無条件返還を掲げた屋良朝苗革新統一候補が当選し、日本への施政権返還を決定的にしました。 

【真の主権回復めざす日に】

沖縄の米軍基地は、朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめ、アフガン、イラクとアメリカの戦争の出撃拠点とされてきました。このような実態は、安保条約の「極東」からも大きく逸脱するものです。

現在の日本は、米軍基地強化、グァム移転費負担、おもいやり予算、TPP参加、アメリカ産ウラン消費のための原発推進などアメリカ言いなりで、とても主権を回復した国とは言えず、むしろ主権を喪失している状態です。

4・28は県民と国民にとって「屈辱の日」であると同時に、「真の主権回復をめざす日」としなければなりません。

(伊佐浜の写真は沖縄県発行写真集「沖縄 戦後50年の歩み」、海上大会は全沖労連作成のパネルから)

追記)海上集会写真の「北緯29度線」は「北緯27度線」の誤りでした。また、当初の原稿では主席公選選挙を1969年としてありました、1968年に訂正してあります。