2018年5月、米海兵隊トップのネラー司令官が、 「普天間飛行場の建設時(1945年)の写真を見ると、数キロ内に人は住んでいなかった。現在はフェンスまで都市地域が迫っている」と発言しています。

「何もなかった。サトウキビ畑だけだった」など、同じような内容がくり返し発信されています。これは本当でしょうか。

2018年6月21日付の琉球新報に掲載された記事を紹介します。

生活の場 飛行場に 玉那覇さん 戦前の字宜野湾を語る

宜野湾市立博物館市民講座が17日、宜野湾市真志喜の同博物館で開かれ、字宜野湾郷友会の玉那覇祐正さん(85)が「語やびら、イガルーシマ~宜野湾編~」と題し講演した。

字宜野湾の集落は、米軍普天間飛行場内にあった。

玉那覇さんは「戦前は貧しかったが、平和だった」と話し、活気のあった戦前の集落の様子や戦中、戦後の経験などを語った。

玉那覇さんは1933年に字宜野湾で生まれた。

戦前、字宜野湾には村役場や学校があり、当時の宜野湾村の中心地だった。

市場もにぎわい、新鮮な豚肉を那覇から買い付けに来る商人もいたという。

戦争が本格化すると、学校は日本軍の兵舎となり、防空壕掘りや竹やり訓練が増えていったという。

玉那覇さんは戦時中、集落内の防空壕へ避難し米軍に保護された。

約2年間収容所で過ごした後、故郷へ帰ると自宅や建物は跡形もなくなり、飛行場が出来上がっていた。

当時の心情を「よその国にきているのかな。ここは宜野湾じゃないと思った」と振り返った。

戦後、玉那覇さんは14歳から基地内に居住する米軍人世帯の庭師やベビーシッターとして働き始めた。

「ソテツも食べた。食べられたものじゃないけど、ひもじくて。

中学の途中から軍作業で働き、学校にも行けなくなった」と経験を語り、「平和な村が戦争で一変した。戦争や基地ほいらない」と訴えた。