6月23日は沖縄県が定めた慰霊の日である。
沖縄県慰霊の日を定める条例は、2条と附則からなるごく短い条例なので、全文紹介する。
沖縄県慰霊の日を定める条例
昭和49年10月21日
条例第42号
沖縄県慰霊の日を定める条例をここに公布する。
沖縄県慰霊の日を定める条例
第1条 我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める。
第2条 慰霊の日は、6月23日とする。
附 則 この条例は、公布の日から施行する。
以上が、条例の全文である。
6月23日には、沖縄県・県議会が摩文仁の丘で開催する沖縄全戦没者追悼式だけでなく、全県各地で慰霊祭が行われる。
とりわけ、摩文仁に建つ平和の礎前では、花を手向け、涙ながらに肉親の名前をなぞる姿が、見受けられる。
小さな子どもを連れて、礎に手を合わせる家族はどんな会話を交わしているのだろうか?
親が子ども達に「おじい、おばあも戦争がなければ、生きてお前たちと遊ぶこともできたろうに」と話しているかも知れない。
それはあくまでも私の推測にしか過ぎないが、礎の前で手を合わせる自体が、立派な平和教育となり、平和の尊さを次代に引き継いでいく役割を果たしているに違いない。
平和の礎を選挙公約に掲げ、建立したのは6月12日に亡くなった大田昌秀元知事である。
1990年の知事選挙で勝利し、大田昌秀氏は琉大教授から県知事となった。
その選挙戦で、私は革新共闘会議の選挙スタッフとして、情報宣伝部に関わっていた。
大田昌秀氏が「平和の礎を建立する」ことを公約として打ち出した時、正直言って私はモニュメントとして、それなりの意味はあるだろうけれど、どれだけの票につながるのだろうか?と思った。
1972年の施政権返還を前後して、屋良朝苗さん、平良幸一さんと革新知事が続いたが、西銘順治自民知事に取って代わられており、県政奪還にかける革新陣営の思いはことのほか強かった。
それだけに、私の中には一つ一つの政策が、どれだけ票として結実するかが問題だった。
その考えが、どれだけ浅はかだったか、遠からず思い知らされることになる。
平和の礎が建立され、地域ぐるみで戦没者の掘り起こしが進む。
なかには生まれてまもなく死亡し、位牌も何もない。
そのような赤ちゃんの名前が礎に刻銘されることによって、“この子が確かにこの世の中に存在していた証”として残るのである。
刻まれた名前をなぞり、涙する遺族・関係者の姿を目にして、胸が締め付けられる思いであった。
同時に、戦争を体験した者と体験していない者の差が、ここにあることを知った。
私の父方、母方の叔父もその名前を刻まれてはいるが、顔を合わせたこともない肉親なだけに、それほどの感慨が湧いてくるわけではなかった。
戦争体験者は年々少なくなっていく。
朝鮮人軍夫の戦没者の掘り起こしも途上にある。
どのように戦争の体験を風化させずに、次代に伝えることができるかが問われているのだと思う。