沖縄の米軍基地の成り立ちは、三つに大別することができる。

(1)旧日本軍の基地を米軍が使用している基地。

(2)戦中のどさくさに県民の土地を囲い込んでつくった基地。

(3)朝鮮戦争のさなかに銃剣とブルドーザーによって県民の土地を強奪してつくった基地。
   この中には、上記(1)(2)の拡張も含まれる。

翁長知事が「県民の意思で米軍に提供した基地は一つもない。辺野古に基地がつくられると県民が提供した始めての基地となる。」と口にするのは、このような米軍基地の成り立ちがあるからである。

「沖縄の基地は国際法に違反してつくった基地であって、直ちに返還するのが筋であって、返すから替りの基地をよこせというのは盗人猛々しい」との主張もある。

沖縄の基地はハーグ陸戦法規に違反する

ハーグ陸戦法規とは、1907年(明治40年)オランダのハーグにて締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」を言う。この条約には「陸戦の法規慣例に関する規則」が付属している。
日本は1912年(明治45年)1月13日が公布日となっている。

 陸戦の法規慣例に関する規則のうち、該当する条文は次の箇所である。

第46条 家ノ名誉及び権利、個人ノ生命、私有財産並びに宗教ノ信仰及び其ノ遵行ハ之ヲ尊重スヘシ。私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ス。

第47条 掠奪ハ之ヲ厳禁ス。

米軍基地は、これらの規則に反し、県民の財産権を侵害して造られたものである。

アメリカの身勝手な「征服の権利」

国際法を無視して、米軍が沖縄で県民の土地を強奪し、基地を建設・拡張していったのは「征服の権利」という時代錯誤によるものであることが明らかになっている。

「日米「密約」外交と人民のたたかいー米解禁文書から見る安保体制の裏側ー」(新原昭治著)が、次のように暴露している。


 収容所時代の軍用地強奪

1945年の沖縄戦で、戦火に追われつづけ家族や同胞の多くを失った沖縄の住民は、戦場をさまよった 末 、長
期の収容所生活を強いられた。そのさなかに、かつて人口が密集していた沖縄本島の南部と中部で米軍が基地建設を始めた。収容されていた住民はそのたびに北へ北へと移動させられた。

それから長い時間を経て、住民たちが出身地に戻ると、自分の生まれた集落が「跡かたもなく消えて無くなったか 、 あるいは米軍用地にとられたまま」だったと、当時の米軍の「軍政活動報告」は記録した(川平成雄著「沖縄 空白の一年 1945ー1946」)。

米軍は住民に何の断りもなく、自分たちが必要と考える膨大な軍用地を一方的に図い込み、奪った。

米陸軍琉球軍司令部作成の秘密報告書「沖縄における米国の土地取得の経過」(1954年11月1日付)に、「米国は1945年の沖縄侵攻後、ただちに征服の権利(ライト・オプ・コンクエスト)によって必要な土地を手に入れた」と述べられている 。


征服の権利とは何か

同書は、征服の権利とは何かについて解説している。


「征服の権利」とは、16世紀から20世紀はじめごろまで、列強諸国が武力で併合を強制または植民地を強要したさい振りかざした強盗の論理だ。第一次世界大戦が終わるころ、民族自決権が国際社会で公然と叫ばれるようになると、「征服の権利」は表舞台から姿を消した。

「1917年の一連の事件ーロシア革命、米国の参戦、それに続いた併合なき講和のよびかけと民族自決権の宣言ーがまったく新しい状況をつくりだした。とりわけ、交戦諸国の古いスタイルの併合政策を続けられなくした」

その時以来、闇に消えていた植民地主義の呪文を、米軍が沖縄でよみがえらせたのである。


 まったくもって理不尽な話である。

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