1月19日付の沖縄タイムスをめくっていて、25面でめくる手が止まった。
その紙面には「語れども語れども うまんちゅの戦争体験」が掲載されており、19日付の記事は、その第373回となっている。証言者として嶺間の文字が目に飛び込んできた。
顔は知らなくても、「嶺間」の性を持つ人間は親戚に間違いないという点は、それほど多くない性を持つ者にとっては、有り難いと言えば有り難い。
嶺間成市さんは、私にとって従兄弟になるのだが、年が21歳も離れているだけでなく、住む場所も離れていたので、顔見知りではあるが、深い付き合いがあるわけでもない。だから、幾ら親戚とは言え呼び捨てにはできないので、さんづけで紹介する。
成市さんの証言の内容は、おおむね下記のとおりである。
成市さんは宮古島のヤーバリ(屋原)部落で生まれ、小学校は鏡原小学校に入学したが、4年生の時に平良第一小学校に転校した。
ヤーバリ部落の土地に飛行場が造られることになったため、立ち退きとなって富名腰部落に移ったことによる。
ヤーバリ部落から富名腰部落に移った人の他、袖山に移った人たちもいたが、袖山ではマラリヤにやられた。
10・10空襲以降、空襲警報もよく鳴った。サイレンが鳴ると帰らなければいけないので、授業はほぼ受けられなかった。
長男や次男は兵隊にとられ、三男は入隊の年齢に達していなかったため、防衛隊に入っていた。
集落には兵士たちが掘った防空壕があった。
ある日あまりにも空襲の音がひどくて、「いつもと違う、怖いな」と感じて、一緒にいたおばあさんを連れて別の防空壕に移った。
翌日見たら、自分たちがいた所が吹っ飛ばされていた。
近所に住む別の家族が空襲でやられて亡くなっていた。
私の長女姉は、成市さんと同年代、少し下くらいの年齢なので、姉から聞いていた話とほぼ符合する内容である。
私の父は、成市さんのお父さんの弟にあたるが、父は富名腰部落の現在地に移る前に、飛行場から少し離れた西側に居を移している。今は「ヤシキ」と呼ばれる畑になっているが、そう呼ばれるのは屋敷跡だからだ。
その屋敷跡の畑の真ん中は、大きなすり鉢状の形に凹んでいた。
それは、米軍の爆弾が落ちで爆発した痕跡で、私の父はその時、爆弾の破片で右腕を失っとのことであった。
戦時中の宮古島の惨状について、福島県出身の兵士、高澤義人氏は、
補充兵われも飢えつつ餓死兵の 骸焼きし宮古(しま)よ 八月は地獄
と詠んだ。
飛行場とは現在の宮古空港のある場所で、ジェット機が就航する時に拡張された(多分そうだと記憶しているが、100%正しいとの自信はない。それを調べつための時間もない。ご勘弁を)。
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