森喜朗五輪組織委員会会長が、女性蔑視発言を批判されて辞任に追い込まれた。
それは当然だと思うが、別の思いを感じる。
すなわり、会議はトップや事務局の提案どおり承認するのが当然だという風潮がなかったのか?
というものだ。
そうであるなら、男女にかかわらず、意見を開陳すること自体が「時間がかかる」ことになり、提案に賛成の意を込めてうなずくか、「異議なし」の一声で済ますことが「時間がかからない」ことになる。
私がある公的機関の委員を務めていたとき、事務局の報告に異を唱える発言をしたり、報告にない問題を提起したりすると「又か」という雰囲気になったものだ。
後で、他の年配の委員は「嶺間委員はもっと大人になってほしい」と、委員会の設置主体に述べている。
私は大人げない、うっとうしい委員であった訳だ。
また、ある公的審議会の委員に、県労連が推薦する者を委員に任命するよう要請した席上で、対応した方は「県労連の委員を加えると、会議の運営に支障がある」と答えたことがある。
つまり、労働者の利益を擁護し、向上させるために、本音の議論を提起する委員は要らないという姿勢である。
五輪組織委員会会長も、そんな状況ではなかったのかと思うのである。
会議はトップや事務局報告を無条件に承認する場ではない。メンバーが様々な意見を出し合い、最も良いと考えられる報告を見いだすところに意義があると思う。そうであれば一定の時間がかかることは当然だろう。