宜野湾市のどまんなかに居座る世界一危険な普天間基地は、沖縄にとって、常に「基地の整理・縮小、撤去」の対象であった。
1985年には、西銘順治知事が訪米して普天間基地の整理・縮小を訴えている。
1985年には、大田昌秀知事が訪米し、普天間基地の返還を訴えている。
が、これらの時点では危険な普天間基地というより、地域の振興上で必要との視点が強かった。
1995年、3人の米軍人による少女暴行事件が引き起こされたことを契機として、米軍基地の整理縮小を求める県民世論が一気に高まった。
1995年10月21日の県民総決起大会では①基地の整理・縮小、②日米地位協定の改定、③被害者救済、④再発防止が決議されている。
1996年には「普天間基地の5年ないし7年での返還」が日米で合意(SACO合意)されたが、県民の喜びもつかの間「移設条件付き」となった。
1996年以降、沖縄は普天間基地の移設問題で、国に翻弄され続けてきた。
2014年の県知事選挙で「辺野古に基地は造らさない」を公約に掲げ、移設推進の立場をとるに至った仲井眞氏に約10万票の大差で勝利した翁長雄志知事の就任1周年の節目に出版された本が「戦う民意」である。
保守政治家一家に生まれ・育った翁長少年が、戦争だけは二度と起こしてはいけないと心に刻み、政治の道を志した経緯も記されている。
また、現在のオール沖縄の原型とも言えるプライス勧告反対闘争(いわゆる「島ぐるみ闘争」)にも触れ、保守も革新もない、県民が心を一つに立ち向かうには、どうすれば良いのかと考え続けてきたことが述べられている。
昨年の翁長雄志知事と菅官房長官との間で「原点論争」が展開された。
翁長知事が「普天間基地問題の原点は戦中・戦後の強制接収」であると主張したことに対して、菅官房長官が「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ちだされたら困ります。1996年の日米合意」が原点と主張したのである。
官房長官という権力の中枢に席を占めるお方が、生まれた前のことは知らないというのでは、県民の一人としては、それこそ「困ります」というしかない。
「戦う民意」では、普天間基地の辺野古への移設問題について、翁長知事が日本の民主主義を問うたたかいと位置づけながらも、日米両政府の強大な権力を相手とするこのたたかいに「確かは称賛もない」と吐露しつつ、しかし「勝てそうもないからといって、相手の理不尽な要求に膝を屈指、そのまま受け入れるのでしょうか。もしそうならば、私は一人の人間として、この世界に生きる意味が薄らぐのではないかと思っています。」と語っている。
辺野古の問題だけでなく、より広く沖縄を理解し、人間翁長雄志を知る書籍である。
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